❢島への情景(東京都大島町)

ツバキ園のツバキの木、雨の中、濡れそぼっても美しい


鎌倉の稲村ケ崎の海岸から、遠く島影が見える。晴れた日はくっくりと、しかし少し曇るとすぐに隠れてしまう。海岸沿いに江の島のほうに目を向けると、富士山の美しい姿が目に入るから、大方の人々はこの島の存在は忘れてしまう。しかし、私は散歩に海岸に出るたびに、島の存在に目を凝らした。島は伊豆大島である。その島の姿が、結構大きく見えるから、最初はそれが大島だとは思わなかった。地図で何度か確認して、それが大島であると納得した。

 

私はこれまでその島に行ったことがなかったから、一度は行ってみたいと思うようになった。何か大島が私には憧憬の島になった。

 

昨日、私とワイフはその憧憬の島に渡った。一番容易な鎌倉からのアプローチは、熱海から船で渡ることだと、観光のパンフレットなど調べてわかった。熱海からだと、ジェット船で45分、東京の晴海ふ頭からだと1時間45分。随分近い。朝6時に起きて、東海道線を電車で1時間下る。熱海駅から熱海港までバスで15分。10時20分発のジェット船に乗る。大島はちょうどツバキ祭りだそうで、それを目当てか全国から観光客がツアーで集まっているようだ。仙台と岩見からのツアー客が待合所にあふれるようだ。

 

ジェット船はほぼ満員、時間通りに大島の元町港に着いた。本日の天気予報は、あいにく曇り雨。3月の初めだというのに真冬並みの寒さになり、東京では雪になるというものだった。しかし、私には大島は暖流(黒潮)に囲われた温暖な島のイメージがあったが、あにはからや寒い。船を下りると、島に垂れこめた雲から雨が絞り落ちるように降ってきた。最悪のコンディションであるが、雨の中のツバキの花の鑑賞も悪くはないな、と気を取り直して、観光案内所で聞いた丁度島の反対側にあるツバキ園にバスで向かった。

 

6人ほど乗った定期路線のバスは、終点のツバキ園で私たちともう一人の3人にとなった。雨はバスを降りても降り続いている。最初にバス停のすぐ下にある資料館を覗いた。ツバキの樹木の日本の分布図に興味がわいた。照葉樹林帯文化のことが頭に浮かんだからだ。

 

少々お腹も空いたので、案内所の女性にレストランの所在を聞いたが、ぶっきらぼうに食事処はありませんという返事だ。確か、港の観光案内所では、“ありますよ”とのはずだったのだが。仕方なくツバキ園に向かう。園の入り口の小さな広場で、ツバキ祭の演出であろう販売店の屋台が並んだ空間があったが、ツバキ音頭らしい子供たちのスピーカーから流れてくる大きなボリュームもむなしく、すっかり諦め顔の従業員たちがムンクの絵のような顔で私たちを眺めている。雨の中を、傘もささずに園を巡った。ツバキの花々は、それぞれ美しく華麗に咲いている。それらは魅力的だった。コンサバトリーの中の、ツバキの種類も豊富で、私たち二人だけにほめられているツバキたちが少々哀れな感じがしたものだった。この温室の中に小さな喫茶ルームがあって、温かなハーブティとおいしいケーキなどがあったら、どんなに素敵だろうかと思ってもみたが、空いたお腹の足しになるわけではなかった。

 

バスをひとつ早めて、元町の港に戻ることにした。バスは、ツバキのトンネルをくぐり、岡田港のコンクリートの桟橋にひたすら打ち寄せる波を眺めたり、民家の軒下で濡れた毛をぺろぺろ繕っている黒猫を見やったりしながら港に戻ってきた。バス停からちょっと坂を上がった定食屋に入る。船客たちがいたが、私たちが午後の最後の客のようだった。愛想のよい店員が、のれんを下げながら私たちの注文を聞いてくれた。魚煮つけ定食は、ラッキーなことに最後の1品だった。この煮つけは結構いけた。

 

食後に、バスの中から見つけておいた「農民芸術」の店という、まるでお宇宙センターのような丸屋根のアートミュージアム兼喫茶店でお茶を飲んだ。木村五郎という彫刻家がずいぶん以前この島にやってきて農民芸術運動を指導し、そこで作り上げた作品を伝承し飾ってあるミュージアムであるらしい。この屋のご主人がその運動に共感して、作品群の保存に奔走したのであろう。店に置いてある『島へ』という雑誌にこの店の紹介と、常さん(宮本常一)がこの島にしばしばやってきて、別荘まで建てたというルポを載せていた。宮本常一は瀬戸内の島で生まれ、終世島へのアイデンティティは深かった。この大島にも、常一の眼差しで、思いを込めて一文があるとルポにあって、その本は私も持っているのもだったから、帰ったら目を通そうと思った。

 

日本の経済の柱だった自動車産業に、いまや大きな壁が立ちあがっている。国は、その柱の代わりに観光産業を考えているのかどうかわからないが、観光庁設立で期待が大きいのは理解できる。地域サイドも観光立国への期待が肥大して、お土産店とブランド列島になりかねないところに来ているが、この大島とういう観光地の熱のなさを、どう評価したらよいのかと迷うほどだ。店に置かれてあった別の本に島暮らしを進めるものがあった。そのグラビアに、移住した中年夫婦の幸せそうな写真があったが、私だったらこの島に移住するだろうかと考えた。稲村ケ崎から眺めていた大島が、「にらいかない」ではなかっという当たり前のことに気が付いただけでも、この島に来た甲斐があったと、降り止まぬ雨を眺めながら、底に残っていたコーヒーを飲みほした。

❢夕張ルネッサンス(北海道夕張市)

何の目的も無しに、ぶらりと旅に出るのは愉しい。内田百聞のように、特急列車に乗ることが旅の目的で、行き先は関係ないという気まま旅もある。しかし、実際にはぶらり旅というのはかなり上級の旅人のやることで、私のような下級者にはそれが出来ない。昨年も何回も旅に出たが、全てがテーマを持った旅だった。無論、目的のある旅にも愉しさがあるが、昨年のものは研究調査という性格で、ある種の厳しさが伴った。私の研究テーマはここ数年、地域経営・地域再生というもので、夕張の経営破綻などがターゲットだ。

 

秋の終わりに、夕張の町を訪れた。紅葉が夕張では観光の売りになっているが、その季節が終わった風景を、連絡の悪い鉄道の列車の窓から眺めていると一段と侘しさが募る。これがぶらり旅だったら、別の思いが胸を過ぎった違いない。アイヌ語で“温泉の出るところ”という名前らしいホテルに荷を置いて、早速「兵どもが夢の後」の遊園地やロボット館、炭鉱博物館やキネマ館など、かつての辣腕市長・中田鉄次氏が開発した観光施設を視察した。これらの経営が窮地に追い込まれ、今は加森観光という民間企業が代わりに経営している。開発された施設の幾つかが閉鎖され、残された映画村などがオープンしているが、訪れる人影はほとんど無い。観光経営にはまったくの素人だった行政人が補助金を頼りにしゃにむに経営した残滓に胸ふさがれる思いがした。

 

翌日、アポを取っていた市役所の観光課の担当者や、民間組織の観光協会や地元新聞の記者などを訪ねた。観光課には、注目される「産業観光」の可能性などについて訊ねたが、後始末がせいぜいで新しいプロジェクトには個人的な関心でしか関われないと嘆いていた。彼らは、実のところ勝手な研究テーマで訪れる私たちや助っ人を自称する人々に手を焼いているのではあるまいか。そんな思いもするヒヤリングだった。

 

しかし、私にはある構想がある。破綻した夕張と同じように経営不振にあった常磐炭鉱のいわき市と、宇部興産という企業が存在する宇部市の三都地域経営比較である。いわき市は映画「フラガール」で一躍注目され、宇部興産は最高の事業利益を挙げている。どの町も、観光を柱にしているが、地域の栄枯盛衰の別れ目がどこにあるのか。この地域経営の成功の秘訣を極める旅は、厳しくもまた愉しい体験として、今年も続くであろう。


❢地域自立の思想(千葉県旭市)

大原幽学の耕地整理跡が残されている。

 

文明が進んでいるということは、世の中が良くなっていくことかと思っていると、どうもそうでもないらしいことは、最近の世情がはっきりと伝えてくれる。例えば経済学は社会科学だといわれているが、ノーベル賞を取った学者のレバレッジ(梃子)の理論が儲けだけを考えた複雑な仕組みに使われて、それが現在の世界同時不況の原因になっていると聞くと、驚きあきれてしまう。身の丈を超えた消費行動を促したサブプライムローン問題に端を発した空前の不況から私たちはどう身を守ったらよいのだろうか。旭市を訪れた私には、そんな問題意識があった。

 

答は一つ、アメリカ発の経済破綻が日本をも席巻してしまうグローバル時代だからこそ、よって立つ地域社会を強靭にして身の丈の暮らしを大切にすることである。この信念をしっかり持っていれば、不用意に株や土地に手を出してバブルの波に巻き込まれることはない。この原点を確認するために、今こそ私は世直しのまちづくりが必要なのだと思っている。いや、現代のまちづくりとは、そもそも世直しこそを大きなテーマにしなければならないということだ。そして、旭市を訪れた私は驚いた。その世直しモデルが、すでにこのまちの歴史と現在の姿の中に存在しているのである。旭市の足元に、世界不況を超克する地域モデルが脈々と息づいているという事実は私には感動だった。

 

私は講演の中で、まちづくりの実践手法という話をした。その一つは、“まちづきあい”であるが、市民がとことんまちに触れる(付き合い)と、たくさんのヒントを発見できるということである。旭市の有名な先人に大原幽学がいるが、私は彼こそがこの厳しい時代を乗り切る方法を提示したパイオニアではないかと思っている。彼の教えの先祖株組合や耕地整理、子供を地域で育てる換子教育など過去のものではなく、現在と未来に有効な教えである。農業の教えに自給肥料があるが、まさに現代の自然生態系農業を志向し、地域の自立する経済と文化を指し示している。この幽学の思想が最も生かされている事例は、旭中央病院ではないかと思う。

 

自治体経営の病院が全国で厳しい経営環境の中、確実な経営が行われているのはこの病院の開祖の諸橋芳夫の思想と努力によるが、「医学は文化」と主張する諸橋先生の思想の底に幽学の仁術の思想を重視することは無理のないことである。講演を終えて、椎名洋ラン園を訪ねた。椎名専務の「高価と思われているランを品種改良してより安価なものを一般家庭に提供する、そんな幸せの花作りが目標」という話に、私も幸せを感じていた。講演で訪れた旭市から、私は逆にこの理不尽とも思える時代を、優しく、しかし確かに生きていく哲学を教えてもらった。